教えのやさしい解説

大白法 463号
 
法華経の行者(ほけきょうのぎょうじゃ)
 「法華経の行者」とは、『法華経』の教説のままに修行する人をいいます。
 日蓮大聖人は『報恩抄』に、
 「仏滅後(ぶつめつご)一千八百余年が間に法華経の行者漢土(かんど)に一人(いちにん)、日本に一人、已上(いじょう)二人(ににん)、釈尊を加へ奉りて已上三人なり」
(平成新編御書 一〇一七頁)
と仰せのように、『法華経』を説いた釈尊をはじめ、像法(ぞうぼう)時代の中国の天台(てんだい)大師、日本の伝教(でんぎょう)大師を「法華経の行者」と称(しょう)されました。
 末法に至っては『撰時抄』に、
 「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(平成新編御書 八六四頁)
とあるように、御自身を日本第一の「法華経の行者」と宣言(せんげん)あそばされました。
 その理由は『寂日房(じゃくにちぼう)御書』に、
 「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品(かんじほん)の二十行の偈(げ)の文(もん)は日本国の中には日蓮一人(いちにん)よめり」
(平成新編御書 一三九三頁)
とあるように、大聖人以外に「勧持品二十行の偈」を完全に身読(しんどく)された方はいないからです。すなわち、『法華経』を読誦(どくじゅ)する行者は数多くいても、『法華経』の文々句々(もんもんくく)を身をもって行じた方は一閻浮提(いちえんぶだい)の中でも大聖人御一人しかおられないのです。
 大聖人は、御自身が「法華経の行者」に在(おわ)すことについて御書中に種々御指南されていますが、この場合の「法華経の行者」には二つの意義があることを知るべきです。
 一つは、『法華経』の教相(きょうそう)の意(い)を主体とする「法華経の行者」です。つまり、末法に「法華経の行者」が釈尊の遣(つか)いとして出現するという『法華経』の経文に準拠(じゅんきょ)した見方です。
 二つ目は、『下山(しもやま)御消息』に、
 「教主釈尊より大事なる行者」(平成新編御書 一一五九頁)
とあるように、「法華経の行者」が釈尊よりも大事の行者であるという意義です。
 この御文(ごもん)以外にも、仏を毀(そし)るよりも「法華経の行者」である大聖人を謗(そし)る罪が大きいこと。また、仏を供養するより大聖人を供養する功徳は莫大(ばくだい)であること。さらに、行者に約して主師親(しゅししん)三徳を示された御文などがあり、これらの御文によって「法華経の行者」である大聖人が末法有縁(うえん)の御本仏であることが拝されます。
 すなわち、『御義口伝』に、
 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(平成新編御書 一七七三頁)
と明確に示されているように、「法華経の行者」の究極的意義は、大聖人が末法の御本尊の当体(とうたい)に在すということです。
 ゆえに、御書に種々示されている「法華経の行者」の語(ご)は、大聖人がそのまま久遠の御本仏にあられることを開顕(かいけん)されているとも言えるのです。
 大聖人の三大秘法を受持する我々も、「法華経の行者」に連(つら)なる眷属(けんぞく)であることを心得(こころえ)て、折伏・再折伏に励むことが肝要です。